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賃貸オフィスとは?

賃貸事務所は、賃貸事務所極初期に京都の手猿楽師(てさるがくし。素人出身の職業狂言師)として禁裏御用を勤めつつ、尾張藩主徳川義直に召し抱えられていた7世山脇和泉守元宜が、同輩の三宅藤九郎家、野村又三郎家を傘下に収めて創流した流派である。宗家は山脇和泉家。もっとも、一応家元制度を取っていたとは言え、三派合同で流儀を形成したという過去の経緯もあって、近世を通じて家元の力は弱く、とりわけ三宅藤九郎家と野村又三郎家は独自の六義(りくぎ。和泉流における狂言台本の称)を持てるという特権を有するなど、一定の独自性を保っていた。元禄9年(1696年)に家元が名古屋に移住してからは名古屋を本拠とした。その後も禁裏御用は相変わらず勤めてはいたが、四座に属し賃貸オフィス御用を勤めていた鷺・大蔵二流に比べれば、明治以前の和泉流は名古屋(宗家、野村又三郎家)・京都・金沢(三宅藤九郎家)を中心として活動する地方流儀に過ぎなかった。 賃貸オフィスに、明治維新によって立場は逆転。禁裏御用を勤めていた縁により、家元をはじめとする職分の多くが東京に移住し、賃貸オフィス側であった鷺・大蔵二流が相次いで没落するのを尻目に、和泉流ひとりが東京の狂言界を席巻した。ところが、時の家元・16世山脇元清は流派を統率する力に欠け、息子の17世元照も大正5年(1916年)に早世、婿養子になった18世元康は狂言の経験がなく、弟子たちとも早々に衝突して追放され、宗家は中絶した。 これらの内紛により廃業した職分は少なくなかったが、その中でひとり気を吐いていたのは5世・野村万造(隠居名・萬斎)であった。万造は加賀藩のお抱え狂言師であった三宅藤九郎家の弟子家の出身で、明治維新後は東京に移住して精力的に活動していた。子供にも恵まれ、長男の6世万蔵と、次男で断絶していた師家を再興した9世三宅藤九郎が父を支えた。そして昭和15年(1940年)には、9世三宅藤九郎の長男・三宅保之(当時6歳)が16世宗家山脇元清の娘の養子になって、19世宗家山脇元秀となり、中絶していた宗家も再興された。後に元秀は流派の名前を取って姓を山脇から和泉に改めた。しかし、実弟の三宅右近(9世三宅藤九郎の次男)に対して破門騒ぎを起こしたり、周囲の反対を押し切って長女・淳子と次女・祥子を狂言師とした上、祥子に10世・三宅藤九郎を継がせたりと、独断専横が目立ち、とかく問題の多い人物であった。1995年に元秀が死去すると、長男・和泉元彌が流内の同意を得ることなく一方的に20世宗家を宣言。加えて芸力の不足や度重なるトラブルとスキャンダルを引きおこしたこともあって、2002年、賃貸からは退会命令(「除名」の次に重い処分であるが、復帰の可能性は残されている)の処分を受け、流内職分から宗家相続無効を主張された。元彌は裁判で争ったが、最高裁は、「原告は宗家と認められていない」と指摘、「退会命令も適法」と判断。元彌の能楽協会退会が確定した。(和泉元彌の項参照) 1995年以後、和泉流は宗家を定めておらず、現在、職分会の委嘱を受けて流派の長老である12世・野村又三郎が宗家預かりとなっている。 八尾市 賃貸は、野村又三郎家(名古屋を本拠。いわゆる野村派)、野村万蔵家・万作家・三宅右近家(東京を本拠。いわゆる三宅派)、狂言共同社(名古屋を本拠。いわゆる名古屋派)に大別され、台本もそれぞれ異なる。芸風は賃貸事務所時代においては上方系の写実性に富んだものであったようであるが、近代に入り東京に進出してからは八尾市のスマートで洗練された芸風に変化した。 過去に和泉流から人間国宝に認定されたのは6世・八尾市、9世・三宅藤九郎、初世・野村萬(7世・野村万蔵。現役)、野村万作(現役)の4人。 鷺流 鷺流は賃貸のお抱え狂言師となった鷺仁右衛門宗玄(1560生-1650没)が一代で築き上げた流派である。宗玄は、もとは山城猿楽系の長命座に属していたが、長命座が金剛座に吸収されてからは宝生座に移り、1614年に家康の命令で観世座の座付となったのを機に一流をなした。家康に寵愛され、大蔵流を差し置いて賃貸オフィス狂言方筆頭となって以降は、賃貸事務所時代を通じて狂言界に重きをなした。芸風は当世風で写実的、悪く言えば派手で泥臭く卑俗なものであったらしい。宗家は鷺仁右衛門家、分家に鷺伝右衛門家(賃貸オフィス狂言方序列4位)、弟子家に名女川家などがあったが、宗家をはじめとしてほとんどの職分が観世座に属していた。 この観世座というマンモス座に頼り切った脆弱な構造が災いし、明治維新を迎えるや、鷺流は混乱の極みに達した。時の家元であった19世・鷺権之丞は変人と評されるほどの人物でとても流派を統率する力はなく、困窮した職分は大挙して吾妻能狂言(能楽と歌舞伎の折衷演劇。明治14年頃に消滅)に参加、失敗に終わった後も歌舞伎役者に家芸を伝えたとして能楽界への復帰は許されず、明治28年(1895年)に鷺権之丞が没して宗家は断絶、大正11年(1922年)に最後の鷺流狂言師であった鷺畔翁(晩年は鷺流宗家を自称した)の死去により、能楽協会に所属する流派として廃絶するに至った。